これまで説明してきたセマンティクス(意味論)のうち、なかなか理解しづらい と言葉の難解さを読者から指摘されてきたのが「般化=Generalization」そして 「弁別=Differentiation)」の件です。で、もう一度説明します。 ある夕方。妻(聖子)は夫(権太)の帰宅を待っていました。 「明日から夏休み。今夜は暑気払いをかねて何か美味しいものでも食べよう」と 聖子はたまたま寿司屋に出前を注文しました。夫の好きなサバ寿司とまぐろ三昧、海苔巻きの3点でした。 帰ってきた権太の発言がどうであったかによって、次の聖子の発言も変わる様子をみてください。なぜって、互いの会話は一連のメッセージ(想い)のやりとりですから、サーブによってリターンが変わるテニスなどと同じだといえます。 ●会話1: 権太 「おっ、今日は寿司か」 聖子 「あなたの好きなサバ寿司とまぐろ三昧、海苔巻きよ」・・・。 権太が現場を総括し、聖子が詳細を説明しました。セマンティクスでいうと、こうなります。 権太は最初に般化し、聖子が弁別しました。登場人物は現場の事情を知識と情感で理解しそのことを共有したのです。こういう夫婦というか、こういう一日が夫婦にはよくあります。平均的な茶の間風景。 ●会話2: 権太 「美味しそうな匂いがするね」 聖子 「お寿司を取ったの」 権太 「サバ寿司もあるな。それにまぐろ三昧と海苔巻きも」 権太は出前を取ったこと、聖子の手料理でないが特別な料理だと認識しました。 美味しい匂いがすることで「歓迎」つまり好意が部屋にあふれていることを察知し、そこからスタートしました。現場の品目の総括でなく、場の雰囲気(今夜は出前)の把握から始まり、聖子はそれにうなずき確認のサインを与えました。注文した詳細を読み上げる行為は帰宅した直後の権太の方がしました。 権太は、場の雰囲気を理解し、妻が確認し、帰宅した方が詳細を説明しました。 場の理解をさらに細かく了解したのが権太です。妻への愛情がそうさせた上級技です。会話がスムースです。上手な選手のラリー。男としてはカクアリタイもの。 妻はその夫の優しさを確認・受容したのが再度の般化「お寿司を取ったの」という発言になりました。光線を通じて目にはいる現場の様子、テーブルの上に並んだ寿司からメニュー内容は分かっていても、そう発言したことに意味があります。 場の確認(夫が般化)→それの確認(妻が般化)→細目の読み上げ(夫が弁別) このように、現場におかれた寿司メニューは同じなのにもかかわらず、両者がどのような会話ラリーを行うかはバラエティに富んでいます。 相手が何についてどのように伝えたいか、顧客メッセージの理解にはセマンティクスという流暢な会話ラリーの理解の技術が必要です。詳細ばかりを読み上げるのは、感情の機微にかけた法律用語のようになります。 弁別は細かく場を説明しますが、そればかりだと「もう分かってるよ」とウンザリされます。 ●会話3: 帰宅した夫の権太が「おっ、サバ寿司、まぐろ三昧、海苔巻き。全部で3900円」といえば、妻は注文したのですから当然知っています。値段も。「言わずもがな」の会話というレベルです。 さらに、妻が「消費税こみだよ。2丁目のお釜寿司屋よ。まったりしてるよ」とかに続く会話だと、うーん、ちょっとナー。 それはそれで、おもろい会話だけど。今度は夫も気づきます。妻が寿司を頼むのは、いつも2丁目のお釜寿司でそこの特上ニギリだとも知っています。(注)米はお釜で焚きます。へんな誤解をしないようにして。 このように細部へ細部へと進むのが弁別です。プログレス(進展)の技術です。 ですが、登場品目がややこしくなり、ゴチャゴチャします。で、一度立ち止まり まとめる処理が必要になるのです。 逆に権太が「何か食い物があるな」とメチャクチャ簡単に了解したとします。 それにあわせて妻の聖子が「出前だ」といえば、場の了解はできますが、細かい理解がえられず会話は前進しません。彼らの前には寿司が3品、整然と並んでます。 ●会話4: 権太 「寿司か」 聖子 「見ればわかるだろ」 権太 「お前、手料理は作らないのか」 聖子 「めんどくせー」 場合によっては、こんな展開にもなります。 こうしたカケアイの機微の妙を、少しずつズラしたり落としたりすると、たいへん愉快な芝居ができます。漫才や落語、コントなどです。予定調和が外れる面白さですが、人間の社会的ユニットの最小単位である夫婦でも、会話の進展パターンによって彼らの置かれている「状況」が把握できます。 弁別は詳細な説明ですから、通常、各部の確認をもとめる進化の場に用いられます。それに対して般化は、全体の把握に使われます。それで、進化というより一旦停止、状況把握のときです。で、これは大胆な言及かも知れませんが、むしろ停止でなく、次の大きな展開、急転回の前段階のことがあります。 冷え冷えとした夫婦関係には、とくに「般化の会話」が目立ちます。 「あ、居たの」「居たよ」「どこ行くの」「会社に決まってるだろ」・・・。 出かける風情から、ネクタイのことや外出必需品の気配りをするのでなくて、 出て行く事実だけに妻が総括しました。 しかし、両者は次に来るべき大きな場面の展開を無意識のなかに読み取っている というか、薄々気づいているとえばその通りです。離婚、そして新しい出会い。 ♪「今日で〜お別れね〜、もう会えなぁ〜い〜」♪(Jasrac無認可) おわかり頂けましたか。 人間が交わすコミュニケーションは、眼前に展開している事実(fact)は 変わらないのに、それをどう理解し、そのことを相手にどう伝えるかによって 大きく色合いが変わってきます。事実としての「場」は変わらないのに。 どこに注目し、どう知識として「認知(cognition)」するか、それが感情をもち思考する存在=人間がなしえる情報生活なのです。般化は「まとめること」。逆に弁別は「広げること」、詳しく説明することです。 ある事象を割ったり、並べなおしたり、砕いたり、合わせたり。こうした連続 した流れを分析といいます。有名な川喜多二郎先生(東京工業大学名誉教授・故人)の説いたKJ法であり、イギリス式でいえば魚の骨にたとえるフィッシュボーン図です。 これは「鳥の目、蟻の目」ともいえます。同じ対象の島を、飛んでいる鳥の観点 から説明するか、地面を這っている蟻の目線で説明するかで、アドミニストレータ 本部(中央)は判断が一変します。 組織活性化研究所の知的ロボット、シンシパル君はいま、こうした情報処理の根幹である「般化」と「弁別」が自動的にできるようになりました。お客様が発した声を、この意見は何をいいたかったのか、聖子と権太の会話の微妙なニュアンスの違いで把握し正しい情報を必要としている会社に提供しています。 もう、文法だけでテキストマイニングというのは、冗談の領域になりました。ワープロ技術を転用しただけの形態素とか、構文解析とかのお遊びではないのです。私たちは文法を話しているのでなく、意味を伝え合っています。日本語をもっとも文法正しく話す人は、国語学者がフランソワーズ・モレシャンさんだと断じています。私もそう思います。「ワータクシは、日本語をキチーンとしゃべりまーす」と。でも何だかへんな会話でした。 鉛筆は筆記道具。ノートは計算やメモするための紙の束ねたもの、帳面。別なもの同士ですが、大きく括れば文房具。作る会社も違いますが、用途と販売店も使用する時も人も生徒・学生ということでも、一緒です。 このように物には名前があり、それぞれユニークな名前を個別にもちつつも、同類語にまとめられることも大きな意味があります。それが自動的に、発言者の意図を汲んで分類できるようになりました。多角・重階層のシソーラスが完成です。 「これからはセマンティクス、意味論の時代です」という文は、古いテキストマイニングに従事していた人々にとっては仰天事項。ですから弁別でもあり、旧式な時代が終わったよ、というまとめでいえば般化でもあります。現に私のセミナーに来られる旧式形態素をもち、なんとかならないかと歯軋りしている企業は毎回、たいへん驚いて帰ります。
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